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昭和大学史
HISTORY

HISTORY

医系総合大学の礎

1925
大正14年

医学博士上條秀介
医学専門学校設立の必要を提唱

石井吉五郎らと同志を募り、
学校設立地を東京府荏原郡平塚大字中延に決める。
上条秀介博士が、昭和医学専門学校創立の意を決したのは、
若干32才の時である。
1925
1928
昭和3年

関東大震災から5年後に
昭和医学専門学校と附属医院が誕生

財団法人昭和医学専門学校を設立し、昭和医学専門学校を開校。
理事長?学校長に岡田和一郎が就任した。
附属医院が開院し、上條秀介が医院長に就任した。
附属医院前の創立時スタッフ当時の旗が岡駅風景当時の旗が岡商店街
1928
1930
昭和5年

昭和医学専門学校本校舎竣工
東洋一を誇る附属病院外来棟が完成

創立から十年を経て、東洋一を誇る附属病院外来棟が完成し、
内外共に充実整備された医専となる。
1930
入学式において学生宣誓旧臨床講堂における臨床実習学生定期身体検査
1932
昭和7年

長野県白馬岳に白馬診療所開設

白馬診療班は、初代第1内科教授吾妻俊夫先生が先達となってはじめた、山岳診療の二班であった。白馬山頂に診療所を設け、夏季白馬登山し、途中病気になった人を無料で懇切丁寧に診療した。
診療風景白馬診療所前での記念撮影出発前の新宿駅ホームでの記念撮影
1932
1938
昭和13年

昭和医専創立10周年記念祭

昭和13年11月、創立記念日を中心に10周年記念祝賀式を盛大に行い、文部大臣初め各界の名士より祝賀の言葉を賜った。昭和15年には新築完成し偉容を誇った附属病院前において紀元2600年祭を記念し、職員の記念撮影をした。
創立10周年記念祭創立10周年記念祝賀式創立10周年記念祝賀会

医学専門学校の定員150名に対し
入学志願者数は約3000名~4300名に達する

入学試験は、校舎は勿論、廊下、病院内、講堂等全部を使用し、不足の分は、星講堂(現星薬科大)及び立正学園女子校(現文教大)を借用し行った。
医専入学試験合格者発表旧実習室実習医学集談会第1回産婆講習所入学式屋上での看護婦担架訓練

医専時代の学生のクラブ活動

現在の学友会の前身は、昭和医学専門学校学友会で、同学友会は昭和3年5月に発足した。学芸部には、図書部、編集部、音楽部、講演部があり、体育部には旅行部、蹴球部、剣道部、柔道部、水泳部、野球部、庭球部、卓球部、陸上競技部、籠球部があった。
医専時代の学生のクラブ活動医専時代の学生のクラブ活動医専時代の学生のクラブ活動医専時代の学生のクラブ活動医専時代の学生のクラブ活動
当時のメス?ピンセット?ハサミ
当時のメス?ピンセット?ハサミ
昭和医学専門学校
1940
昭和15年

昭和医専の制服
「医学生は常に紳士であれ」

昭和医学専門学校の制服はサージの背広で、白のワイシャツ、黒のネクタイ、黒靴だった。帽子は黒のソフト、ボタンはエボナイト製の物で、背広は三つボタン、ボタンの表面には昭和医専のマークが刻印されていた。
この制服は戦時態勢のため昭和18年度卒業者までとなり、改正されて制帽は角帽となり、制服は国民服となった。その後医専末期にすすむと、角帽、国民服又は詰襟学生服等へと変わっていった。
1940
1941
昭和16年

第二次世界大戦 日本が宣戦布告

昭和16年12月8日に日本が宣戦布告すると、各種勤労動員が開始され、本学学生は宮城前における清掃作業、草刈り、水まき等、全学あげてこれに従事した。
看護学校学生による防火訓練宮城前広場清掃勤労奉仕学生実弾射撃訓練
1952
昭和27年

大講堂及び医学進学課程校舎
研究室等が完成

大講堂(上條講堂)および医学進学課程校舎(後の薬学部研究室)、研究室等が完成し、同大講堂において大学第1回卒業式を行った。
病院より見た大講堂及進学課程校舎烏山病院正門
1952
1954
昭和27年

大学院医学研究科の設置

大学院医学研究科博士課程が設置された。医学専門学校、医科大学初期においては卒業後研究を続けるために学位(博士号)を獲得することが必要とされ、他大学の多くは学位審査権のある私立大学研究科に入学しなければならなかった。
学位第1号旧学位令による最初の学位取得者教授室の口答試問